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デンテツ各駅探訪

平成初年頃の路線(全線単線)

かっこで囲んである駅は、実在したものの平成元年当時存在しなかった駅、駅名の色が薄い駅は、計画のみで実現しなかった駅です。
西善久停留場等請願されたものの実現しなかった駅は鋭意調査中です。
当用漢字制定以前の年代にのみ存在(計画)した駅は、当時を尊重して資料どおりの字体で表記しています。
↓上り 下り↑  交換可能駅に○
新潟駅前停留場…"旧"新潟駅の真ん前
本社前停留場…今でいう万代シテイ中心部
礎町停留場…旧鏡橋のところ
古町十字路停留場…今も昔も大和と三越(小林)が競い合う
營所通停留場…今でいう新潟けんしんの十字路
縣廳前停留場…新潟大学医学部最寄
白山前駅(昭和60年までは県庁前駅)…モダンな事務所所在駅
(縣廳前假停留場)…本駅舎ができるまでの間に合わせ
(監督所前停留場)…戦前に存在。モハ1形(路面電車)専用
(白山浦一丁目停留場)…戦前に存在。モハ1形(路面電車)専用
(白山浦二丁目停留場)…戦前に存在。モハ1形(路面電車)専用
(中学校前停留場)…戦前に存在。モハ1形(路面電車)専用
(軽金前停留場)…戦前に存在。モハ1形(路面電車)専用
(硫酸会社前停留場)…戦前に存在。モハ1形(路面電車)専用
東関屋駅○…車庫のある、デンテツ最大の駅
東青山停留場…デンテツ唯一、高い土盛り上にある
平島停留場…関屋分水工事で移転
寺地停留場…住宅地の中にある
(ときめき停留場)…開業からわずか2年で廃止
焼鮒駅○…新潟地震でホームが曲がった
越後大野駅○…中心街から外れた駅
黒埼中学前停留場…学生の利便を考えた停留場
新大野停留場…中心街に新設された停留場
木場駅○…デンテツでは珍しく、平地にある駅
板井停留場…松の高木が生える停留場
七穂駅○…松の高木に囲まれた後設駅
吉江停留場…お寺の門前にある停留場
味方中学前停留場…学生の利便を考えた停留場
味方駅…単線ながらも「駅」
(假白根停留場)…本設備ができるまでの間に合わせ
白根駅○…東関屋に次ぐ主要駅
千日停留場…新しい、簡素な停留場
曲停留場…歴史のある、後設停留場
月潟駅○…区間廃止後のしんがり駅
六分駅○…区間運行もあった主要駅
新飯田駅○…川向こうの地名を冠した駅
小中川駅…単線ながらも「駅」
灰方駅○…燕高校などの最寄駅
燕駅○…デンテツ唯一のJR接続駅

車窓案内(平成初年頃)

列車が白山前駅を発車すると、しばらく路面電車となります。白山浦の通りは、現在からすれば道が非常に狭く、電車とバスのすれ違いは見ものでした。私立第一高校(新潟硫酸の跡地)を過ぎると、列車は鉄軌分界点にさしかかります。ここから向こうは一般の鉄道です。鉄軌分界点を過ぎればまもなく車庫のある東関屋駅です。堤防ができる前は信濃川がホームから見えました。東関屋駅を出ると上り勾配となり、1972(昭和47)年通水の関屋分水を渡ります。この分水ができる前は、移動後の平島停留場まで平坦な一直線でした。橋を渡り終えると、土盛り上には新顔の東青山停留場があります。「東」のつく駅名が2つ続きましたが、実はJR越後線と並行しているのです(白山・白山前〜青山・東青山)。この停留場は、目と鼻の先にあるジャスコ新潟店への接続駅として誕生しました。さて、東青山を出ると県道42号線を渡り、地平に降ります。しばらく県道42号線(その奥は信濃川)と並走すると平島(へいじま)停留場です。ここまでが、関屋分水設置に伴う付け替え部分です。列車は住宅地の中を進み、寺地停留場に着きます。ここからは旧新潟市域を抜け、黒崎町(現新潟市)になります。住宅街はまだ続き、数年後に不運のときめき停留場ができるところを過ぎます。次は交換可能の焼鮒(やきふな)駅。駅名は、越後七不思議の「焼鮒(1211(建暦元)年、浄土真宗の宗祖、親鸞上人の酒宴に出された焼いた鮒に、上人が念仏を唱え池に放すと鮒が泳ぎ出した)」に由来します。焼鮒は新潟地震で片ホームが大きく変形し、修理した後が見られました。焼鮒は1952(昭和27)年頃に交換設備を設け、停留場から昇格しました。次も交換駅の越後大野駅です。場所からすると大野の街の北端のさらに先に位置し、このことが新大野駅開設に大きく影響します。ちょうどこの付近で信濃川と、そこから分流した中ノ口川が合流しますが、デンテツは中ノ口川に沿って走ります。次は黒埼中学前停留場。学生の利便を考え開業した新顔です。たった500m進むと次の新大野停留場です。ここが正真正銘、大野の街の中心部です。そこから農村的な風景になってくると、すぐ木場駅です。デンテツ末期は東関屋からここまでの区間列車も設定されていました。木場を出るといよいよ堤防沿いを走ります。本当に堤防にへばり付いているのが板井停留場です。板井は松の高木数本に囲まれていました。次も堤防に沿った七穂駅。ここから味方(あじかた)村(現新潟市)に入ります。七穂は交換駅ながら、あとで設置された駅です。列車本数が増大し、ダイヤ上のネックが発生したためでしょう。設置当時は「越後山王駅」でした。七穂も立派な松の高木があります。この木は、廃止後の道路工事で切り倒されそうになったとき、周辺住民の惜しむ声から切らないことになったそうです。ここは木場駅くらいの大きな駅舎がありましたが、放火で焼けてしまい、跡には新建材で新しい駅舎が建てられました。ただ、隣接する便所は焼け残ったのか、年代物に見えました。この便所も全線廃止時まで他の駅と同じように改築されなかったようです。七穂を出るとしばらく堤防から離れますが、再び堤防に付き、吉江(よしえ)停留場です。駅に降りると高念寺の立派な門が正面にあります。そして再び堤防から離れると味方中学前停留場です。ここも学生の利便を考えた停留場です。ここのホームの線路側には、なぜか千日停留場の駅名標が見えました。廃止後数年経ってから、ホームを解体し、新たに記念碑的な駅舎ができました。私たちにとって見れば記念碑よりも遺構のほうが大事なのですが、地元の方がいつまでもここに駅があったことを忘れないような素晴らしい記念碑になっているので、これも捨て難いものです。再び堤防に付いてしばらく走ると味方(あじかた)駅です。途中の「駅」としては小中川との2駅だけ交換設備がありませんが、貨物取扱を行っていた大きな駅です。堤防沿いを走ると次は白根駅です。発車ベルも装備され、東関屋に次ぐ途中主要駅です。ここは味方村白根(現新潟市西白根)です。したがって、川向こうの東白根、白根市(現新潟市)の街にデンテツの駅があったわけではありません。また、ここは「白根大凧合戦(東西白根が中ノ口川を挟んで凧を絡め合い、観客参加の綱引きで勝敗を決める)」で有名です。デンテツのあった当時は、凧の綱引きが始まると、それが終わるまで電車が立ち往生するという、全国でも白根だけでしか見られない珍現象が起こっていたものです。次は千日(せんにち)停留場です。千日は新しい簡易な停留場でした。千日を出ると月潟村(現新潟市)に入りますが、堤防から離れ、国道460号線をアンダークロスし、道路と並走します。左には月潟特産の梨の果樹園が、右には水田が延々と続くのどかな風景です。並走する道路と分かれるとすぐ曲(まがり)停留場です。月潟村に入ったところからここまでは現在、サイクリングロードとして整備されています。曲を出ると、小さな橋を渡り、再び堤防に沿って走ります。そして月潟駅。月潟〜燕廃止前は交換可能駅でしたが、廃止されると、片面の線路をはぎ、単線の終点駅となりました。ここから先も堤防に沿って走り、六分駅に着きます。ここは中之口村(現新潟市)です。次の新飯田(にいだ)駅も中之口村。新飯田の駅名は、川向こうの白根市(現新潟市)新飯田からとりました。新飯田からは堤防を完全に離れ、灰方駅過ぎまで田んぼの中を一直線に進みます。この区間は線内の最高速度が出ました。上越新幹線の高架をくぐると小中川駅です。ここから燕市に入ります。小中川は1952(昭和27)年頃に停留場から昇格しましたが、交換設備はダイヤ上充分だったのか設けませんでした。途中、北陸自動車道をくぐって、次は灰方駅です。ここは燕高校などの最寄駅でした。列車は灰方を出てしばらくすると左にそれ、またしばらくすると左に大曲線を描いて燕の街に向います。カーブが終わると、列車は燕駅に入ります。燕はJR弥彦線の上り線と島式ホームを折半していて、跨線橋は同じものの、駅舎は別です。デンテツの構内はJRよりも広く、月潟〜燕廃止直前は、休車中のクハ45形のほとんどとモハ16が全部入ったほどです。

専門的な注釈

駅・停留場の使い分けについて


運転取扱(作業自動化前でいうポイント・信号切替等)を行う、列車の停まるところを停車場(駅《旅客・貨物》・信号場・操車場の総称)、行わない、列車の停まるところを停留場といいます。1919(大正8)年制定の地方鉄道建設規程に規定されていましたが、後継の1986(昭和61)年制定、普通鉄道構造規則ではどちらも停車場と呼ばれています。ただ、デンテツでは普通鉄道構造規則制定後も列車運行図表で停車場・停留場の使い分けをしていたので、それに従います。なお、当サイトでは便宜上、停留場と駅を一くくりにして「駅」としている箇所もございます。ご了承ください。

停車場・駅の使い分けについて


上記の通り、駅とは停車場の一部ですが、明治・大正から昭和はじめにかけては、停車場という用語しかなく、駅はその俗称に徹してきました。しかし、次第に駅が優勢になり、また、1936(昭和11)年の鉄道省(のちの国鉄、現JR)の職制改正によって停車場と駅の呼び分けが明確になり、停車場の劣勢は増していき、ついにはほとんど消滅しました。デンテツでは、列車運行図表では廃止まで9割以上が停車場の表記でしたが、各駅舎入り口の看板の全てや『新潟交通20年史』、それに国への申請書類(1936(昭和11)年から)が駅の表記を行っており、これにより、駅の表記が妥当だという結論に至りました。ただ、1936(昭和11)年以前は駅の呼称が定められていないこともあり、この時代に限れば停車場の呼称が妥当であることも参考までに申し上げておきます。