デンテツの歴史
太字の見出しを拾い読みするだけでも大まかにわかるようにしました。
〜昭和10年代 | 昭和20〜30年代 | 昭和40〜60年代 | 平成に入る
〜昭和10年代
デンテツ以前
交通に恵まれなくなった白根近辺の人々
大河津分水(現燕市の分水町にある。1922年通水)ができる前は、信濃川と同じように中ノ口川(新潟市の旧白根市西端をかたちづくる信濃川の支流。旧白根市北端で分流し、南端で合流する)にも新潟〜長岡の蒸気船(一般的には川蒸気というのでしょうか。いわゆるポンポン船です)が通っていました。沿線の人々は、これに乗って新潟に行ったそうです。しかし、信濃川流域に甚大な被害をもたらしてきた洪水に"ほぼ"終止符を打つ大河津分水ができ、分水以下の信濃川系の流量が減少すると、中ノ口川では船が川底に当たって航行できなくなり、交通の便が悪くなってしまいました。
鉄道は白根をよけた
デンテツができたもう一つの理由は、鉄道が通らなかったことでしょう。海沿いを通って直江津に向う北越鉄道(現信越本線。1898年全通、1907年国有化)は新津丘陵沿いを選定しましたし、さらに海沿いを通って柏崎に向う越後鉄道(現越後線。1913年全通、1927年国有化)は海が目の前の新潟砂丘を選定したことにより、両方から10kmずつ離れたちょうど中間地点の白根近辺の人々は、鉄道の恩恵を受けることができませんでした。川蒸気もなくなり、鉄道も通らない白根近辺で、 新しい交通手段建設の声が高まったのはしかるべきだったわけです。
開業まで
堤防上はダメ、副堤を使う
白山浦1丁目〜西蒲原郡燕町(当時)までの軌道敷設許可申請がなされたのは1925(大正14)年です。この頃の敷設計画は、ほぼ全区間を中ノ口川の堤防上に敷設する(併用軌道)というもので、これは建設費削減がねらいです。しかし、「敷設には自腹で堤防道路拡幅をすること」という条件がついてしまい、高い負担額を前に断念せざるをえませんでした。そこで考えついたのが、同じ中ノ口川の副堤(堤防の補助)を利用することでした。このようにして「ほとんどの区間を堤防にくっついて走る」というデンテツ独特の形態が生まれたわけです。
建設中の社名は「中ノ口電気鉄道」
申請の3年後に認可が下り、翌年、1929(昭和4)年には運営会社が設立されました。その名は「中ノ口電気鉄道株式会社」で、デンテツの運行経路をうまく表しています。社章はNを丸で囲んだ意匠です。なおデンテツの呼び名の元となった「新潟電鉄株式会社」へは、1932(昭和7)年7月7日に改称されます。
萬代橋、金は出したが通れずじまい
中之口電気鉄道設立の年の8月には、3代目の萬代橋(ばんだいばし。代用字制定の影響か萬の字が万となったが、2004(平成16)年の国重要文化財指定を機に萬に戻された。コンクリート製だが、御影石張りで美しい)が竣功しました。これには新潟駅(現在地とは異なり、万代口の代々木ゼミナール付近にあった)まで延伸する予定だったデンテツも走ることになっていて、建設費用負担もして、中央が軌道用に砂利敷きとなって竣工しましたが、戦中戦後の資材不足などで延伸は断念せざるをえませんでした。その後の萬代橋は、地方にしては恐ろしく広い道幅を持つこととなり、"無駄づかい"と皮肉られることになります。しかし、結果的にこの道幅でなければ、現在日本海側最大の都市となった新潟の交通需要を満たすことができず拡張工事を行うことになり、国重要文化財指定には至らなかったことでしょう。
新潟電鉄に改称
前述のとおり、開業前の1932(昭和7)年7月7日に、「中ノ口電気鉄道株式会社」から「新潟電鉄株式会社」へと社名が変更されます。その動機は、「もっと規模の大きな社名を」ということだったようです。ただ、社紋はどちらも"N"で始まる社名だったため、使い回し。社内の体制が変わるでなし、この時代はこれでよかったのでしょう。
新製電車、関屋に到着
1933(昭和8)年1月には、新製の電車が到着します。1月4日、鉄道省(のち日本国有鉄道。現在のJR)越後線関屋駅に、東京の日本車輌製造東京支店からの、2日の初荷が到着しました。内容は電動客車2両で、モハ11形11・12(廃止時のモハ10形11・12とは違う)です。2両は関屋駅から新潟硫酸会社(当時。現在の私立新潟第一中学・高校)の専用線を通って同社の前に置かれ、軌道がつながってから東関屋駅の車庫についたようです。7日にはモハ11形13・14が到着し、開業時の顔ぶれが揃いました。
続々と完工、営業開始
1932(昭和7)年4月24日に東関屋駅で起工式を行った地方鉄道区間(東関屋〜燕)は、東関屋〜仮白根(白根の手前、白根開業後に廃止)が翌年の1933(昭和8)年3月24日に完工し、4月1日から営業(まだ旅客のみ)を開始しました。白根〜燕は、8月12日完工、15日営業開始です。1932(昭和7)年10月1日に着工していた県庁前(3代目県庁は1937(昭和7)年、現在の新潟市役所のところに竣功、1985(昭和60)年解体)〜東関屋は1933(昭和8)年7月20日完工、28日営業開始です。3区間とも完工から10日と置かずに営業開始しているのが印象的ですね。鉄道省との連絡運輸認可は1933(昭和8)年8月27日、貨物営業開始が、東関屋〜燕が同年9月5日、県庁前〜東関屋が翌年8月1日です。県庁前〜東関屋の貨物取扱開始の遅れは、後述の県庁前駅舎がまだできていなかったことに関係しているのでしょうか。それとも単に認可が遅れていただけかもしれません。
県庁前駅舎竣工、タンコロ営業開始
1936(昭和11)年3月26日に、県庁前駅の本駅舎が竣工します。木造3階建て耐火レンガ張り、上から見ると角の取れた三角形で、優美な曲線が特徴でした。それまでの仮駅舎は写真に残っているものが極端に少ないわけですが、唯一、以前旧月潟駅に飾ってあった(復活しました)絵葉書(コピー)に、モハ11形13と一緒に"それらしきもの"が写っていました。それを見ると、場所は本駅舎と変わらなかったようです。4月1日には、軌道線専用の4輪単車、モハ1形1・2が営業を開始しました。この車両、路面電車そのもので(新製)、タンコロと呼ばれていたようです。タンコロがいた頃は、軌道線にはタンコロだけが停まる停留所が5ヶ所(営業開始当時は4ヶ所)設けられていて、県庁前駅にも、県庁(現在の市役所)側に専用の乗降場を設けており、将来の新潟駅(現在の場所とは異なる)延伸のために、切れた線路の先は東中通へ向いていました。
後発の駅たち
開業から1年が経った1934(昭和9)年6月15日には、地元からの請願か、デンテツ側の乗車向上策か、新大野停留場が開業します。同年10月20日には曲停留場が開業しますが、それまでの白根〜月潟(当時千日停留場はなかった)の4.2kmもの駅間距離(当時のデンテツ最長)は私鉄としてはかなりの長さではないでしょうか。少し間があいて1937(昭和12)年11月22日には越後山王駅(3年後に七穂駅に改称)が開業します。列車本数増大に対応するためか交換可能駅で、七穂地域(周辺の7集落の集まり)の米出荷駅としてにぎわいました。
戦時色深まる
新潟交通、大晦日に合併
"大会社に仕立て、戦争を乗り切らせる"という国の政策に基づいて、新聞社は1県1紙(新潟日報社などが誕生)など、企業の大合併が進められました。鉄道+バスに関しても1県1社が原則だったようですが、南北に長い新潟県は、下越の新潟交通・中越の越後交通(田中角《角の字は縦棒の下を出す》榮首相関与で有名)・上越の頚城鉄道自動車(これ以前は頚城鉄道、鉄道線廃止後は頚城自動車)に再編されました。新潟交通に関しては、昭和40年頃から電車線(デンテツ)がお荷物になっていましたが、これ以前は主力部門で、この新潟電鉄と新潟合同自動車の合併当時は対等合併でした。1943(昭和18)年7月14日に合併契約を締結し、同年12月31日に合併しました。役所を臨時に開けさせて、奇跡の大晦日合併を果たしたのです。
タンコロ、川崎市電に供出
戦争の影響により、デンテツでは乗客が増加し、在来の車両だけでは乗客をさばけなくなってきました。そこでデンテツは新しい制御客車を造ろうとしますが、このままでは時局柄許可されるものではありませせんでした。そこで、軌道線専用(路面電車)のモハ1形(通称タンコロ)1・2を1944(昭和19)年9月10日に廃車の上手放し、その代わりにそれより大きなクハ34形34・35の製造を許可されました。海老で鯛を釣る、というのは言いすぎでしょうか。しかし、この代償は大きく、デンテツの路面電車は二度と復活することはありませんでした。そもそも、軌道区間が短い(単線、単閉塞なので1両しか走れない)割に専用車両が2両もあるのは、旧新潟駅までの延伸による距離増加を考慮されていたものだったのですが、これで、区間延伸をしても途中に小さな停留場を設けるには新たな専用車両が必要になったわけで、こういう事情もあって延伸に手を伸ばせなかったのかもしれません。惜しいことです。ところで、売り払われたモハ1形1・2はというと、廃車の年の10月14日に開業する川崎市電に供出され、同線初の車両、100形101・102となり、開業時はこの2両だけでピストン運行していたそうです。しかし、有名な川崎大空襲で1両を焼失し、大打撃を受けました。その後は都電から3両を譲り受けるなどして何とかやっていたようです。しかし、モータリぜーションは全国どこも一緒で、川崎市電は早々1969(昭和44)年4月1日に廃止されました。
軌道線、地方鉄道線と同じ電圧に
デンテツでは、地方鉄道線は一般電圧(1500V)、軌道線は路面電車の一般電圧(600V。軌間は鉄道線と同じ)を採用したため、軌道線専用のモハ1形は本当に軌道線しか自走できませんでしたが、地方鉄道線向けのモハ11形・モワ51形は、床下にモーターの並列固定装置(一般電車には、1台車には2個のモーターがついており、マスコンにより低速時は並列、高速時は直列につないで速度を操作する)が付いていたので、600V区間にも乗り入れできました。
しかし、これの保守が大変だったのか、デンテツ唯一の直流600V専用車両だったモハ1形1・2の存命中にもかかわらず、1943(昭和18)年に工作物規程例外適用(軌道区間昇圧)を申請し、許可が下りました。ところが時局柄か工事ははかどらず、1945(昭和20)年8月1日(終戦の14日前)にやっと竣工しました。前述のとおり、このときすでにモハ1形は身売りされており(この昇圧も身売りに拍車を掛けたかもしれません)、何の問題もありませんでした。これでモハ11形・モワ51形の巨大なモーター並列固定装置は必要なくなり、取り外されたそうです。『新潟交通20年史』によると、この装置の跡は、この本が書かれたころにも残っていたということなので、モワ51には今もその跡が残っているのかもしれません。
昭和20〜30年代
車両不足
東武鉄道からの供出車
デンテツは、戦後も順調に乗客数を伸ばしていきましたが、修理待ちの車両が増加する中、車両不足が表面化してきました。これは全国どこでも同じだったようで、関東圏の大私鉄も車両不足が起きていました。そこで国は、大私鉄に国鉄規格の63系(粗製電車の代表、ロクサン)を新製配置させ、それで余った旧型車両を地方私鉄に供出するという策を採りました。国鉄の建築限界などに合わせられる大私鉄でなければロクサンは投入できませんが、各社は工事をして、欲しくもない(?)ロクサンを入線させました。この結果、東武鉄道では、電化開業時のデハ1形・2形などが余ったことになり、それがデンテツ・上信電鉄・上毛電鉄などに供出されたわけです。デンテツには、デハ1形6(デンテツではモハ19)・デハ2形6(同モハ18)・7(同モハ17)の3両が来たのですが、旧デハ1形のモハ19だけは木製でした。当時の担当者はこれを嘆いたそうで、のちにニセスチール化(木の外張りだけを鉄にする)を行い、さらには有名な桜木町事故(クリックで当サイト内の説明を新しいウィンドウで表示)の関係で全鋼製の日車標準車体へ載せ変えられます。もしモハ19がモハ17形と同じ半鋼製なら、廃止時に布陣していた車両の顔つきも変わっていたかもしれません。
つかの間の充実時代
雪かき車購入
1951(昭和26)年デンテツは鉄道省(のちの国鉄、現JR)お古の雪かき車、キ1形36を購入し、キ1形1としました。それまでのデンテツは、雪が降れば人海戦術で除雪するしかなく、このキ1導入は画期的な雪対策となりました。特筆すべきはキ1車内で制御ができることです。『新潟交通20年史』によると、購入後直ちに制御装置・ブレーキ装置を取り付けたということです。同誌の電車工場長の寄稿には、誇り高々に"日本広しといえども雪掻車内で運転できるのはこれが最初でしょう。だから正確にはキ1ではなくクキ1というべきでしょうね。"と書かれています。同誌にはキ1を押す電動車の記述がありませんが、貨物輸送が廃止になった後は、ヒマなモワ51が専らその任に就いていたようです。それ以前については証言がありません。キ1にはウィング開閉のために圧縮空気を送るのでコックを操作しますが、それを戻すことさえ忘れなければ(戻し忘れるとブレーキができません)素人目にはモハ11形などの客用車でも問題ないような気がします。キ1形が老朽化してくると、1968(昭和43)年に再び国鉄からキ100形116(全鋼製。キ1形の後継ぎで、蒸機時代の代表的な雪かき車)を購入し、今度は無改番で使用しました。デンテツ晩年にはキ116+モワ51のコンビをとらえようと、降雪期には大勢のファンがデンテツに駆けつけました。
日車標準車体登場
前述しましたが、粗製電車の63系(ロクサン)が起こした桜木町事故(クリックで当サイト内の説明を新しいウィンドウで表示)により、国から木製電車鋼体化の通達が出ました(電気絶縁さえしっかりしていれば問題ないと思うのですが…)。デンテツでこれに該当するのが、前述、東武鉄道供出車のモハ19形19です。当車は東武形式デハ1形で木製だったため、当時の担当者はこれを嘆いたそうで、のちにニセスチール化(木の外張りだけを鉄にする)を行っていました。まず1960(昭和35)年、モハ19形19が、生まれ故郷の日本車両東京支店にて日車標準車体により鋼体化され、出場しました。なお、このときのドアは4枚ともプレスドア(ガラス下の鉄板部分に00のような押し模様がある)だったようです。詳しいファンの間では話題になっていたようですが、全線廃止時も、月潟方の進行方向左のドアだけはプレスドアでした。これで木製車がいなくなったわけですが、車体大型化で味をしめたのか、日車標準車体化の動きは止まりませんでした。1962(昭和37)年にモハ17形18が鋼体化、モハ18形18と改番されました。翌年モハ11形14が鋼体化、モハ10形14と改番されました。ここで次項で述べる新潟地震が発生し、デンテツは復旧作業に追われるようになります。そして復旧作業が終了して1966(昭和41)年にやっとモハ11形11(改番後はモハ10形)が鋼体化されました。その後も各車が鋼体化され、最後は1969(昭和44)年のモハ24形24・25でした。ほぼ10年越しの大作業だったわけです。なお、唯一鋼体化されずに残ったモハ16形16Uは、営業成績が傾き投資することができなくなったのか、1969(昭和44)年に小田急で廃車になったデハ1400形1409(電動機類は小田急4000形へ組み込み)と交換し、自社で電動機類を取り付けました。ただ、現場の方に聞いてみると、乗りごこちは余りよくなかったようです。
※日車標準車体の詳しい説明は、当サイト内の「※日車標準車体」(新しいウィンドウで表示)をお読みください
天災
新潟地震発生、全線大打撃
新潟国体春季大会閉会式の5日後である1964(昭和39)年6月16日13時2分頃、新潟県粟島南方沖40kmを震源として、マグニチュード7.5の巨大地震が発生しました。この地震で粟島は全体が1mも隆起したといいます。新潟市の一部などでは震度6(当時の基準。現在では6強と6弱に分かれる)を観測しました。信濃川左岸(県庁前駅〜東関屋駅のあるところ)では液状化現象が発生し、県営川岸町アパートがドミノ倒しになった映像はご覧になった方はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。また、開通15日後だった昭和大橋がものの見事にバタンバタンと倒れ傾いた映像も多く流れていたでしょう。その中でも、萬(旧用字は万)代橋は取り付け部分が壊れただけで本体は無事、唯一通行が可能だったそうです。死者が26名で済んだのは奇跡とでも言いましょうか。
デンテツでも、甚大な被害が出ました。車両の目立った被害はなかったようですが、一部では路盤が崩壊、わかりやすい例では、焼鮒駅では本屋(ほんおく)反対側のホームが大きく曲がり、修繕の後はそこだけコンクリートが白光りすることになりました。全線廃止時に販売された列車運行図表によると、地震当日と翌17日は全線運転不能、18日18時に燕〜白根開通、19日11時に白根〜七穂開通、20日18時30分に七穂〜越後大野開通(いずれも間引きダイヤ)と来て、6月22日から第1次暫定ダイヤ(地震前39→20往復。モハ+クハ×3、モワを使用)で運行、7月21日には越後大野〜東関屋が復旧、翌1965(昭和40)年1月1日にやっと東関屋〜県庁前が復旧(地震前39→26往復)し、全線復旧となりました。この間半年、この運休で乗客離れに拍車が掛かったとも言われています。
昭和40〜60年代
相次ぐ合理化
車内放送・ドアエンジン施工
1968(昭和43)年、モハ18・クハ46に車内放送装置が取り付けられました。以後、各車に取り付けられました。同年、ドアエンジン(ドアの開閉装置)の取り付けも始まり、1970(昭和45)年までに、モワを除く全車に取り付けられました。以前旧月潟駅にいらっしゃった方の思い出話で「ドアが手動だった」とおっしゃっていましたが、今から40年ほど前に乗られた方は手動ドアを経験されているはずです。大変だったのが改造所の新潟鉄工までの輸送ルートで、県庁前駅から国鉄(現JR)新潟駅は、距離にしてわずか数キロしか離れていないものの線路がつながっておらず(もし新潟駅まで開業できていたとしても線路はつながっていなかったことでしょう)、燕から国鉄で輸送したそうです。
客数向上へ駅新設
戦後の駅新設第1号は1953(昭和28)年の味方中学前停留場でした。名前からして味方中学校(1947(昭和22)年開校)の利便を考えた駅です。某E後線N潟大学前駅のように、学校からはるかに離れた駅もありますが、ここは学校から歩いて2分もあれば着くくらいの近距離です。次の新設は1967(昭和42)年の寺地停留場でした。その後は1980(昭和55)年の東青山停留場、1982(昭和57)年の黒埼中学前停留場、1985(昭和60)年の千日停留場、1997(平成9)年のときめき停留場と続きます。収益改善にはつながったのでしょうが決定打にはならず、廃線への道をたどることになります。なお、黒埼中学前停留場は、新大野停留場から500mしか離れておらず、しかも直線区間のために両駅相互から見えたということです。また、請願されたものの実現しなかった西善久(にしぜんく)停留場がありました。新津市(現新潟市)の新津鉄道資料館にはデンテツの路線図兼運賃表が展示してありますが、そこには西善久用に空白が用意されていたように記憶しています。
タブレットから自動閉塞へ
ローカル線の見ものの一つとしてタブレット交換(新潟近辺のJRでは只見線が有名です。一時代前は腕木式信号機もありましたね)がありますが、デンテツではそういった設備面は比較的早いうちから改良が入りました(合理化による人員削減が第一義)。まず1969(昭和44)年4月17日に東関屋駅で自動信号の起工式が行われました。施工は日本信号株式会社です。7月には東関屋〜白根が完工し、8月1日に使用開始しました。白根〜燕は1970(昭和45)年4月に起工し、6月末に完工、8月1日に使用開始しました。これにより、両区間は通票式から単線自動閉塞式に変わっています。これで地方鉄道線では、大きなベルのついた真っ赤な機械は見ることができなくなりました。残る軌道線は、10年以上経った1983(昭和58)年2月1日に通票式から単線特殊自動閉塞式(自動閉塞式の簡素化で、駅の場内だけに信号を設けるだけで運用できる)に変わりました。なお、旧月潟駅の駅名標の隣には、「日本信号株式会社」と書かれた白い機器箱がありますが、これは40年ほど前の設置当時のものかもしれません。
ワンマン列車運行開始
地方私鉄の合理化といえば、ワンマン化が代表格でしょう(最近は地方のJR線もやっていますね)。デンテツでは、1982(昭和57)年4月1日にワンマン化が行われています。日車標準車体はワンマン運転に適さない構造(客用ドアと乗務員室が窓2つ分離れている)でしたが、改造なしで無理やり運賃箱を設置しました。これで、朝のラッシュ時以外は原則として単行運転となったわけです。ただ、クハにもワンマン化工事は行われました。工事が行われたのはクハ45形の45〜48の4両で、残るクハ45形49・50とクハ36・クハ37・クハ39の5両には工事は行われませんでした。余剰となったクハは即時廃車されたわけではなく、初めて廃車が出たのは1985(昭和60)年のクハ39でした。その後、1989(平成1)年12月31日のクハ36・クハ37が廃車、その後モハ16とクハ45形47〜50が休車となり、燕駅に留置されていましたが、1993(平成5)年8月1日の月潟〜燕区間廃止で居場所を失い、六分駅まで回送されて解体されました。除籍は、すでに鉄くずと化していたであろう同月31日でした。これで残ったクハは、クハ45形45・46の2両となり、適正両数になったのかと思いきや、今度は同年12月31日、クハ45が除籍の上佐渡島・加茂湖の遊覧船会社に売却され、両津港で遊覧船の待合室として使用されました(現在も残存していますが、遊覧船がなくなったので待合室としては使われず、閉鎖されています)。これでクハが足りなくなったのか、モハのモーターを外してクハ代用として使われることがありました。
貨物取扱廃止
静岡県に岳南鉄道という盲腸線の私鉄がありますが、この鉄道は貨物輸送が主力で、旅客輸送はいつの時代も脇役に徹しています。こんな恵まれた私鉄もある中で、開業当初から貨物取扱量が少なく(電気機関車を作れず、代わりに電動貨車のモワ51を作ったほど)、旅客輸送が主力だったデンテツでは1982(昭和57)年7月1日、合理化で貨物輸送の廃止が行われました。これ以前には1958(昭和33)年12月1日に貨物取扱駅の集約(木場駅などで取扱廃止)を行って生き残りを賭けていました。しかし、米どころ新潟平野における一番のお客様である、米を始めとする農産物がトラック輸送に切り替えられたのが大きな痛手になったのでしょう、結局は廃止されてしまいました。その後、白根駅では宅配便の取次ぎを始め、本屋(ほんおく)の窓に荷物の有無を知らせる札が掛かっていたのは有名でしょう。ただ、貨物取扱が廃止されてから17年が経とうとしていた1999(平成11)年の全線廃止時にも、保存されている月潟駅を始めとしたほとんどの駅で「貨物取扱」の標示が残っていたのには、外す必要がなかったほど需要がなかったのかもしれないと、複雑な気持ちになります。
ATS・CTC使用開始
保安装置のATS(列車自動停止装置)は、鉄道事故の報道などでたまに聞くことがありますが、要は列車を赤信号で確実に停止させる装置です。デンテツでは1983(昭和58)年4月1日に運用開始されました。元運転士の渡辺さんによると国鉄(現JR)の赤信号手前で「ジリリリリリキンコンキンコンキンコン」という音が鳴るS形系とは違い、赤信号を通過したときだけブザーが鳴る仕組みだったそうです。この装置とワンマン運転開始時に設置されたデッドマン装置(運転士が足元のペダルをずっと踏んでいる。もし足がペダルから離れれば運転士の異状とみてブレーキが掛かる)のタッグで事故を未然に防いでいたというわけです。CTC(列車集中制御装置)は、一つの運転指令所から一括して各車の状況を把握し、ポイント・信号切り替えなどを行う仕組みです。これを設置すれば各駅の信号てこ・ポイントを扱う駅員を削減できるわけで、合理化の観点が大きいのでしょう。集中管理装置は東関屋駅に置かれ、1984(昭和59)年3月21日に運用開始されました。東関屋の木造駅舎(当時。1992(平成4)年に立派な駅舎を新築)と最新機械は、さぞ均整の取れていなかったことでしょう。
元小田急のモハ2220形運行開始
合理化、廃止と暗いことばかり書いていますが、新しい車両の導入と聞いて明るい話題と思った方もいらっしゃるでしょう。でも残念、このモハ2220形も合理化の刺客です。モハ2220形は小田急形式デハ2220形で、1985(昭和60)年2月25日にモハ2229-2230のコンビが購入されました。小田急の工場であらかじめワンマン改造されており、ラッシュ輸送や白根大凧合戦の観客輸送に使われました。2両は当然ながら貫通路で結ばれており、デンテツ最初で最後の貫通路保有車となりました。導入当初は塗装を変える予定だったようなのですが、さわやかな小田急塗装が利用者の人気を呼び、わざわざ同じ色の塗料を買って塗りなおしたそうです(青帯の前面の角が丸くなっていましたが、面倒くさくなったようで最後の塗装の際に丸くマスキングをせずに塗ってしまったそうです。廃止時の皆さんの写真には、それが克明に記録されているはずです。2006(平成18)年9月下旬に発売された鉄道コレクションのシークレットはこの塗装になっています)。また、モハ2229のほうは踏切事故に遭い、その復旧の際に前面貫通路埋め・方向幕埋めを行いました。その形態が前述の鉄道コレクションシークレットのものです。2220形の最期ですが、誰もが廃止間近と思い始めていた1998(平成10)年12月に、なんとMG故障を起こしてしまい、そのまま二度と動くことなく解体されてしまいました。
平成に入る
相次ぐ廃止
東関屋〜白山前、歓迎の廃止
軌道沿線の私立新潟第一高校・中学に通っていた方ならわかると思いますが、デンテツ軌道区間の走行時騒音は生半可なものではなかったそうです。そこに白山浦通りの道幅の狭さ(開業にあたり、当時の電車・自動車の大きさに合わせて拡張したのですが…)も相まって、デンテツ廃止運動は日に日に規模を増していきました。そして1991(平成3)年11月26日に東関屋〜白山前(県庁移転に伴い1985(昭和60)年6月1日に県庁前駅から改称)廃止許可の申請が出され、1992(平成4)年3月10日に廃止許可、同月19日が最終運行(翌日休止、31日まで代行バス運行の上で4月1日に廃止)となりました。…しかし、満員だから、学校まで30分もかかる児童を歩かせている某教育委員会の通学バスに、自分たちの地域を通過させるなという声が起こるのと同じで、軌道専用停車場がまだ残っていればまだ利便性があり、道路拡張または一方通行という選択肢もできていたのではないかと悔やまれます。
燕〜月潟、反対されるも廃止
次は、伝統的に利用者の少ない燕〜月潟が廃止の標的になりました。沿線では熱のこもった廃止反対運動が起きましたが、この区間の運行を続ければ赤字の増え方が違ってくるため、新潟交通電車部ではどうしてもこの区間の廃止をしなければなりませんでした。1993(平成5)年5月31日廃止許可申請、7月21日廃止許可、同月31日最終運行、翌日廃止となっています。燕駅に留置されていた休車中の小田急HB車群は居場所を失い、モワ51に引かれて六分駅に行き、そこで解体されました。この区間の廃止に伴い代替バス(燕駅前〜月潟〜白根〜潟東営業所)が運行開始しました。しかし、便数は極端に少なく、2007年初め現在廃止協議中とのことです。廃止代替バスですらも廃止の天秤にかけられているこの現状、乗客が少ない中でも小型バス導入で何とか経費を抑えようとしている新潟交通西株式会社には文句を言えませんが、悲しくなります。
結局わずか2年の命、ときめき停留場
暗い話題が10個連続で来ましたが、この停留場の新設は明るい話題ではないでしょうか、ただし最初だけ。時は全線廃止750日前の1997(平成9)年3月16日、新興団地の「ときめきタウン黒埼」の中にときめき停留場が開業しました。しかし、記念式典も何もなかったそうです。少しでもデンテツに長生きしてもらおうと、あるいは電車のある利便性を売り込もうと廃止を知らずに着工した黒埼町(現新潟市)はカンカンに怒って、とうとう新潟交通側が駅の工事費(1300万円強)を全額返還することになりました。廃止時に行われたグッズ販売や部品即売の売上を全てあわせても到底この補償金には及ばないのでしょう。また、このときめき停留場は、当時一世を風靡した恋愛シュミレーションゲーム「ときめきメモリアル」マニアの聖地と化し、名ばかりの待合室(まるでカーポート)の壁は落書きで埋まったそうです。
東関屋〜月潟、"最後のとりで"も廃止
ときめき停留場開業1ヶ月後の1997(平成9)年4月17日、新潟交通は翌年3月に電車線を廃止する方針を表明しました。累積赤字はすでに何十億にまで膨れ上がっていました。沿線自治体は協議会を立ち上げ、廃止か存続かを議論しました。新潟交通も、沿線自治体の赤字補填さえあれば運行を続行できると提示しましたが、あまりの高額な赤字に沿線自治体と県はこれを拒否し、デンテツの廃止は決定的になりました。廃止反対の運動もあったことはあったのですが、その移動に自動車を使うという失態を見せたといいます。1999(平成11)年3月11日に廃止承認、ファンと収益のために日曜日にあわせて4月4日最終日、翌日廃止されました(なお、廃止の日の4月5日にキ116+モワ51+モハ11の編成が月潟駅まで回送されました。これが正真正銘最後の線路使用です)。1933(昭和8)年4月1日の一部開業から24,110日が経っていました。しかし、元々ペナペナの日車標準車体がほぼ限界まできていたであろうこの時期が全線廃止になりました。デンテツを取り巻く状況が変わっていたら、どこの大私鉄のお古が日車標準車体を一掃したか、見てみたい気もあり、見たくもない気もあり。