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車両について

中ノ口電気鉄道創業時…1933(昭和8)年〜

理念と実際

誰の発想かはわかりませんが、創業時の理念は、「駅舎は短期間持てばいいが、車両は長く使えるものを」だったようです。デンテツの駅舎を見たことのある方ならわかると思いますが、上田電鉄別所温泉駅のような優雅なつくりではなく、外壁は下見張りで、当時の一般住宅と見間違うほど…質素というか、簡素というか…でした(現存する月潟駅もこの部類。ただ、唯一違ったのが県庁前→白山前駅ですね。この駅舎は手間が掛かったでしょう)。そんな理念で建てられた駅舎達が、66年後の廃止まで現役(放火1駅・建替2駅程度など除く)だったというのも皮肉な話です。

さて、車両ですが、当時続々と開業した地方私鉄が鉄道省天下り(笑)の木製車など、中古を使うところが多かったのに対して、デンテツは前述の理念もあって、貨車に至るまで全て新車で揃えました。電動客車・制御客車・電動貨車は同じ規格で統一された半鋼車で、さぞ眩しかったことでしょう。

戦中・戦後…1941(昭和16)年頃〜

粗製電車流入と余った車両

戦禍がだんだんと大きくなるにつれて、日本国民への制限も大きなものになっていきました。鉄道界では、鉄資源節約のため新車の製造は国が管理するようになりました。あの有名な"ロクサン"63系もこれの産物です。ロクサンは東武鉄道・東京急行電鉄(いわゆる大東急)小田原線(小田急電鉄)・厚木線(相模鉄道)・名古屋鉄道・山陽電気鉄道・近畿日本鉄道南海線(のちの南海電気鉄道)に国から供給され、それで置き換えた旧型車を地方私鉄に供出する命令が下りました。当時乗客の増加で車両不足に陥っていたデンテツも供出先の一つで、デンテツには東武鉄道からデハ2形7・9、デハ1形6が来てそれぞれモハ17形17・18、モハ19形19となりました。デハ1形というのは、東武鉄道が電化開業する時に製造した車両で、デンテツ生え抜きのモハ11形よりも約10年古く、木製車でした(のちにこれがデンテツにおける日車標準車体登場の理由となります)。デハ2形は半鋼だったので、これでモハ17・19形は分断されたわけです(もし3両とも半鋼であれば廃止時のモハ18と19は同じ形式だったかもしれません)。

デンテツでも供出車

デンテツでも供出車がありました。モハ1形1・2です。これは、当時東関屋〜県庁前の軌道に設けられていた乗降場を行き来するための、いわば路面電車でした。前述のとおり車両不足だったデンテツで、新車(クハ34形34・35)を造るために、1944(昭和19)年に開業する川崎市電に供出し、100形101・102(いずれも初代)になりました。川崎市電は開業当初、この2両だけでピストン運行を行っていたそうです。しかし、川崎大空襲で1両が(もう1両の行方は未調査)焼けてしまい、活躍時期は微塵ほどです。

デンテツにも粗製電車

故障車が出て車両不足が深刻化してくると、車両割り当てを申請し、1947(昭和22)年にモハ16(T)を購入しました。ただ、このモハ16、かなりの粗悪品だったようで、すぐに制御車クハ36(T)に改造されました。

昭和30(1955)年代〜廃止…1999(平成11)年

粗製電車の影響

1951(昭和26)年、ロクサンが桜木町駅で起こした大規模火災"桜木町事故"(交換作業の不手際で垂れ下がった架線に、入線してきた列車のパンタグラフが絡まり、パンタグラフが横転して短絡、発火。戦時設計車で、防火対策がなされていなかったことが第一因。他にも、窓が3段で脱出できなかった、駅員がドアコックの位置がわからずドアを開けられなかった等の原因が重なり焼死者106人を出した)の影響を受けて、国鉄のみならず私鉄にも木製車淘汰の通達が出されました。前述のとおり、デンテツには開業当初木製車はありませんでしたが、戦後の供出で1948(昭和23)年にデンテツに来たモハ19が唯一の木製車だったため、通達はデンテツにも来ました。それを受けてモハ19の鋼体化を行わざるを得なくなり、1960(昭和35)年、日本車輌東京支店の蕨工場で鋼体化が行われ、元番号のまま日車標準車体(詳しくは「昭和40年頃〜廃止」の中の同名項参照)に化けました。これで木製車はいなくなったものの、この後も日車標準車体化の動きは止まらず、2年後にモハ17形18→モハ18形18、翌年にモハ11形14→モハ10形14、新潟地震を挟んで1966(昭和41)年にモハ11形11→モハ10形11…のように、1969(昭和44)年までに、モハ16形16(小田急デハ1400形1409で鋼体化)を除く全ての電動客車が日車標準車体に変わりました。置き換わった日車標準車体は、廃止までの30〜40年間、変わりなく働きつづけたわけです。

小田急HB車が流入

制御車でも大きな世代交代がありました。1967(昭和42)年から69年にかけて小田急デハ1400形・クハ1450形・クハ1350形の大群が押し寄せ、開業の年以来在籍していたクハ31形31・32、神中(じんちゅう)鉄道(のちの相模鉄道)の元キハ30形31であるクハ33形33、前述のクハ34形34・35、これも前述のモハ16形16(T)→クハ36形36(U)を一気に置き換えました(置き換え後の形式は前の3形式とモハ17形18(T)→クハ40形40がクハ45形45〜50、クハ36は2代目)。これは日車標準車体と同じように車両の更新というよりは大型化が目的なのでしょう。この置き換わった車体も、平成に入ってから廃車と、約20年(クハ46は30年)にわたって働きつづけました。

今度はABFM車が入線

小田急の車両はもう一度やってきます。1985(昭和60)年、元デハ2220形2229-2230の編成が、車両の近代化のために導入されました。デハがモハになっただけで番号は変わりませんでした。この車両はワンマン化後唯一の万年2両編成で、ラッシュ時や白根大凧合戦等の繁忙時に使用されました。

以上、デンテツ車両の概略です。各車の詳しい説明はフレームの「昭和8〜40年頃」「昭和40年頃〜廃止」「雪かき車・貨車」をご覧ください。