昭和8〜40年頃の車両たち…
モハ1形1・2
戦前、県庁前〜東関屋の軌道線に存在した軌道専用電車専用停留場に停まるために用意された車両です。「タンコロ」「チンチン電車」などと呼ばれたそうです。
当形式は1933(昭和8)年に造られました。県庁前〜東関屋(単線単閉塞)だけなら1両で充分でしたが、当時は新潟駅(現在の場所とは異なり、万代口代々木ゼミナール付近にあった)〜県庁前の延伸計画があったので2両造られました。通勤通学の時間帯になると、電車の床が擦るほどたくさんの人を乗せて走ったそうです。
デンテツでは、戦時中も乗客が増え続けたようで、車両不足が発生しました。そこで新しい車両(のちのクハ34形34・35)を造ろうとしますが、鉄不足の時局柄、許可が下りるものではありませんでした。そこで、当形式を2両とも手放すことを条件に申請をしたところ、許可が下りました。小さな当形式で、定員が倍もある大きなクハ34形の申請に成功したわけで、ある意味「海老で鯛を釣る」ではないでしょうか。さて、当形式がデンテツから身売りされた先は、神奈川県の川崎市電でした。デンテツでの廃車(軌道線の小停留場廃止も同時)は1944(昭和19)年9月10日で、川崎市電の開業は10月14日です。川崎市電では当初、身売りされた当形式2両だけでピストン運行を行っていたそうで、車両面ではかなりの突貫工事のような印象を持ちます。川崎市電での形式は100形101・102(両者とも初代)でした。その2両も、1両は川崎大空襲で焼失(もう1両は未調査)してしまい、戦後は1946(昭和21)年に、都電に合併された王子電気軌道の150形と170形(両形式とも王電形式200形)の各1両が譲渡されるなどして営業を続けました。しかし、モータリゼーションの影響をもろに被り、1969(昭和44)年4月1日に廃止されました。
戦後の新潟交通は経営状態がよくなかったそうで、戦前に計画され、戦争で中断になっていた県庁前〜新潟駅(現在地とは異なり、万代口代々木ゼミナール付近にあった)の延伸計画を再興、1948(昭和23)年5月25日に工事施工許可を受けたものの工事に入れず、最後はトロリーバスに計画変更するなどして出しつづけた軌道特許も、1958(昭和33)年10月23日に失効してしまいました。それどころか、戦前に当形式で運行されていた軌道線の小停留場も復活ならず、結局デンテツの路面電車は当形式の2両だけで途絶えてしまいました。
諸元
製造年月日…1933(昭和8)年3月20日
製造所…日本車輌製造株式会社東京支店
前所有者…なし
前番号…なし
最大寸法…長9200×幅2430×高3950mm
自重…9.25t
定員…50(内座席26)
台車…日本車輌製造株式会社 S型電車単台車
電動機種類…株式会社芝浦製作所 直流直捲
電動機諸元…出力26.1kw 電圧600V 箇数2
歯車比…69:14=約4.93(比が大きいと速度が低く牽引力が大きい)
制御器…株式会社芝浦製作所 RB-200型主抵抗式