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日車標準車体

日車標準車体(日車標準形とも)とは、昭和30(1955)年代に生まれた全鋼製のレディーメイド式、廉価の載せ換え用車体です。盛況の私鉄では、戦後の資金不足の中での乗客増加で車体大型化をどうやって進めるか悩んでいた時期でありましょうし、1951(昭和26)年に起こった桜木町事故(クリックで当サイト内の説明を新しいウィンドウで表示)の影響で思いがけず木造車を淘汰しなければならず、この車体に手を出した会社(デンテツなど)もありました。

定義・概略

当サイトでは「日車標準車体」の定義を、「戦中戦後の混乱期に疲弊、旧態化した地方私鉄の車体更新のために日本車輌製造株式会社(通称、日車)が製造した(経緯上、一部、汽車製造株式会社が製造したものも含む)レディーメイド(事前製造、すなわち既製品)的な考えをもった廉価版車体である」とし、それに当てはまる岳南鉄道(譲渡先の近江鉄道・大井川鐵道含む)・松本電気鉄道・それにこのデンテツの5社で活躍した車両と位置付けます。

ただし、「日車標準車体」のとらえ方にはたくさんの考え方があり、果ては現代の日車製品のなかで標準化されたものでも、しばしば「日車標準形」という名称が登場します。ここではそこまで言及しませんが、以下に、「日車標準車体」とくくられることのある車両、すなわち広義の「日車標準車体」についてみていきます。

まず挙げられるのは、同和鉱業(のちの小坂精錬)小坂鉄道キハ2100形(1962(昭和37)〜67年製。7両。のちに同和鉱業片上鉄道に2両、弘南鉄道黒石線に2両が転籍)・関東鉄道や同社系列のバス窓車両など、日車製で形状が酷似しているものの側窓寸法などが違う車両です。これらは新規製造の上級車であり、上記のように定義した当サイトでは「日車標準車体」とは扱いませんが、「バス窓」という決定的特徴や側面形状からすればこれらの車両は、広義では日車標準車体に含めて問題ないでしょう。ちなみに、小湊鉄道キハ200形(1961(昭和36)〜77年製。14両)は窓形状こそバス窓ではありませんが、側面窓・扉配置が似ており、日車標準車体の近縁ともいえるでしょう。

※バス窓…昔のバスはみんなこの側窓形状でした。上にHゴム(断面がHに見える、窓のはめ殺し・隙間埋め用品)で固定された低い窓があり、その下に上昇窓(両端の金具をつまむと、窓が上に開けられる)がついているものです。戦後復興期のバスで大流行りしたそうです。大型車製造に適しているモノコック構造(応力外皮構造。航空機の製法を利用してアメリカでは1940年代に、日本では終戦翌年の1946(昭和21)年に導入された)は側板に張力をもたせて車体形状を維持しているので、車体に大穴を開けられないが採光はしたい、ということでバス窓が生まれたようです。

「バス窓」というくらいですから、当時のバスはほとんどがこの形の窓であったわけです。しかし、時代が進むにつれて、モノコックボディーはリベットが目立つのと開口部が小さく見えるように社会が変化したのとで、悪く言えばゴツゴツしていて閉鎖的なイメージがとり付くようになり、1970年代末〜80年代に製法はスケルトン構造(欧州で発展。多数の細い骨組みで車体を支えることからバードケージ(鳥カゴ)の異名を持つ。モノコック構造に比べて開口部を大きくとれる)へと移行しました。

国鉄のバス窓車両元祖は、1953(昭和28)年に製造されたキハ44000形増備車の11両といいます。ちなみにその試験車4両は80系電車そのものともいえるような湘南窓、シル・ヘッダー(窓上下にある帯状の補強)付き1段上昇窓という組み合わせ。気動車の湘南窓は1953(昭和28)年製造のキハ44100形(先頭車。前面が湘南形の片運転台)・キハ44200形(中間車。運転台なし)の3両編成5本、計15両で踏襲されて途絶え(その後もバス窓は踏襲されてキハ10系につながる)、そのなれの果てがキハユニ15形をはじめとする湘南窓荷物車だったりするのです。ところで、なぜバス窓を採用したかですが、軽量化のためというのも一因ではないでしょうか。ただ、この当時のバスはバス窓が大流行りだったといいますし、流線形など案外にも流行にならって車両設計をしていた国鉄のことだから、よもや、バス窓に神経が行って採用されたのかもしれません。実際、205系の窓のこともありますからね(笑)。

また、メーカーも違う十和田観光電鉄モハ3400形3401(1955(昭和30)年、帝国車輌製)、同車増結用のクハ4400形4406(1962(昭和37)年、川崎車輌製)、栗原電鉄(のちのくりはら田園鉄道)M15形(モハ。M151〜M153の3両。1955(昭和31)年、ナニワ工機(のちのアルナ工機)製)・C15形(クハ。C151〜C152の2両。車体としては1960(昭和35)〜1961年、西武所沢工場製。)なども、外観上は日車標準車体に似ており、メーカーは違うながら、広義の「日車標準車体」に含めて差し支えないものでしょう。

ただ、岳南の2両は日本車輌のものと同時製造で同寸であることを考えると、例外的に当サイトで定義している「日車標準車体」に入れるのがふさわしいようです。

かつては、これらの車両は「特徴がないのが特徴」とさげすまれましたが、いまでは完全な人気者です。(少)ないものねだりが特徴の「ファン心理の定理」とでもいいましょうか。

この車体を導入した会社は3社(岳南鉄道・松本電気鉄道・デンテツ)、うち岳南のお下がりを譲り受けたのが1社(近江鉄道)です。岳南(近江含む)・松本は両妻面貫通で、中心に引き戸式の貫通扉がありました。デンテツは開業当初から貫通扉を持った車両がいないという、地方私鉄にはありがちの状況でしたが、このとき貫通扉を導入するのではなく、従来車にスタイルを合わせて非貫通の前面2枚窓となり、他の3社とは前面形状が大きく違います。ちなみにデンテツでこの時期に導入された大型クハ(もと小田急1400系)もわざわざ貫通扉をふさいでいます。そのため、ワンマン運行時に後ろ1両は客扱いながら終点まで締切になる、なんてことがあったようです。

各社の状況をみていきましょう。

松本電鉄の場合

松本電鉄上高地線(直流600V電化で開業。1957(昭和32)年11月1日に750Vに昇圧)の日車標準車体の形状はデンテツとは違い貫通式(妻面に引き戸式の貫通扉があり、車掌の行き来ができた)でした。初期の製造なので、ライト形状は全て砲弾形(電球)、屋根上のベンチレーター(通風器)は全てガーランド式(考案者の名からとった。上から見るとグリーン車のマークのよう)です。

理由…木製車の鋼体化

長野県の松本電鉄では、鉄道省(のち国鉄、現JR)の「省電」と同スタイルのデハ1・3・5(鉄道の上高地線は奇数、別に存在した軌道の浅間線は偶数を付番)や、それを真似て作ったデハ9、他に2両の大手私鉄譲渡車両がありましたが、全車木製だったようです。国から鋼体化の通達が来た時は焦ったでしょう。

日車標準車体による鋼体化は、1958(昭和33)年のデハ5→モハ10形105に始まり、年1両ずつのペースで進み、モハの最後は1963(昭和38)年のデハ18→モハ10形1011でした。モハ105が日車標準車体を載せた最初の車両ではないでしょうか。

また、松本電鉄には制御車が1両だけ、クハ16という車両がいましたが、これも木製だったようです。ということで1964(昭和39)年日車標準車体で鋼体化され、クハ10形102となりました。濃いオレンジに窓周りが薄い灰色の塗色は松本電鉄の一時代を築き上げましたが、変電所・電装品の老朽化を機に1500Vへの昇圧を行うことになり、日車標準車体の車両は1986(昭和61)年12月、昇圧の前日に全車引退しました。

昇圧後は東急5000系(青ガエル)がワンマン改造(実施はデンテツから4年遅れ)の上で入線しましたが2000(平成12)年に引退し、2007年10月現在では京王井の頭線3000系が使われています。上高地近辺が休息・登山地として有名なことが大きく影響しているのか、松本電鉄上高地線は今も元気に走っています。

もっと詳しく松本電鉄の日車標準車体とその種車を知りたい方には、手近なところではWikipedia 松本電気鉄道モハ10形電車(新しいウィンドウで表示)をおすすめします。

岳南鉄道の場合

岳南鉄道(直流600V電化で開業)の日車標準車体の形状はデンテツとは違い貫通式(妻面に引き戸式の貫通扉があり、車掌の行き来ができた)でした。初期の製造なので、ライト形状は全て砲弾形(電球)で、1975(昭和50)〜1977(昭和52)年の間に全車2灯シールドビーム化、屋根上のベンチレーター(通風器)は全てガーランド式(考案者の名からとった。上から見るとグリーン車のマークのよう)です。

理由…木製車の鋼体化・老朽化クハの置き換え

静岡県の岳南鉄道では、国から通達が出た当時、ほとんどの車両が木製車だったそうです。それから日車標準車体を使っての鋼体化に入りました。なお、形式は全車モハ1100形です。1959(昭和34)年のモハ201→モハ1101に始まり、最後は1963(昭和38)年のモハ38→モハ1106でした(これで発生した旧車体はクハ2100形2101に転用されています。つまり、元駿豆鉄道のモハ38は木製車ではなかったのでしょう)。

こうして5両が鋼体化されましたが、モハ1102・1105は汽車製造株式会社製で、特に1105の方は、当時珍しかったステンレス製(コルゲート板張)で、それを強調するために、他車の「赤に細白帯」ではなく無塗装の銀ピカで登場しました。アジア鉄道会議にも出品されたそうです。汽車会社製とはいえ日車のものと同設計のようで、銘板を見ない限り日車製にしか見えないでしょう。なお、1104は「死」を恐れて忌み欠番です。

1969(昭和44)年9月に架線電圧の600Vから1500Vへの昇圧が行われましたが、日車標準車体には変化なし、その直後、製造後10年経たない1969(昭和44)年12月にはモハ1102が事故廃車されました。他車は1981(昭和56)年の東急5000系(青ガエル)入線時に一斉廃車され、ステンレスカーのモハ1105は車両博物館の意味合いが強い大井川鐵道に行き、残りの3両(モハ1101・1103・1106)は近江鉄道に売却されました。他社に行った4両は下で解説します。
青ガエル後の岳南鉄道は、京王井の頭線3000系が入線し、それに合わせたワンマン運転実施は1997(平成9)年3月22日ダイヤ改正からと、デンテツより15年遅れとなりました。


それにしても、松本電鉄・岳南鉄道に東急青ガエル・京王3000系が入ってきていること、デンテツ・岳南鉄道に小田急車が入ってきていること、東急・京王・小田急は戦時中は同一会社だったことを考えると、日車標準車体どうしで何か深いつながりがあるかのように感じられます。

近江鉄道の場合

理由…岳南鉄道からの売却

岳南鉄道に東急5000系(青ガエル)が流入すると、はじき出されて1981(昭和56)年に廃車になった日車標準車体車が1982(昭和57)年、滋賀県の近江鉄道に売却されました。売却されたのは旧モハ1100形1101・1103・1106で、それぞれモハ100形101・102・103となり、黄色に太灰色帯という塗色に塗り直され、木床のままで走っていました。

売却翌年から走り始め、1987(昭和62)年にはワンマン改造が行われましたが、老朽化のためかモハ101が1993(平成5)年、モハ102が1994(平成6)年、モハ103が1996(平成8)年にそれぞれ廃車になっています。しばらく彦根駅構内に留置されていましたが解体されました。

しかし、ここから先が近江鉄道のすごいところ。物理的には廃車になった上記3両の車籍を流用してモハ220形223〜225という切り接ぎの新製車両にあてがったのです。さらに、この車籍は岳南で日車標準車体化される以前から続いており、最古の記録は3両それぞれ鉄道省(現、JR各社)・伊那電気鉄道(現、JR飯田線の一部)・駿豆鉄道(現、伊豆箱根鉄道)と、名だたる面々です。

現在は規制緩和により、車両を新製するときは旧車との縁を切って製造されるのが普通のようですが、当時は新製の時には国(鉄道省の地方鉄道監督部署)に認可を得なければならず、その手間を少しでも簡単にするために考え出されたのが、旧車を廃棄するときに車籍だけは抹消せず、新車にその車籍をあてがって、あたかも更新改造したように見せる、という方法でした。こうやっても形式番号の変更(クハ○○形○□→クハ□□形△△)は問題なくできました。

つまり新車と旧車の間には、車籍が同じ以外は何のつながりもない、という事例がありました。それも、近江に限らず全国の私鉄で。これではまるで家制度当時の戸籍です…。デンテツでも、1両まるごと入れ替えるときでも車籍を継がせた車両があります(入れ替え後でいうクハ45形など)。その中でも特異なのが、形式番号を変えずに別車両を入れた場合。例えばモハ16形16。

初代のモハ16形16は戦後の1947(昭和22)年にめちゃくちゃな新製車両が日鉄自工から届いて、使い勝手の悪さにたまりかねて3年でモーターを抜き、クハ36形36(初代)になりました。その後に国鉄富山港線で廃車になって放置されていた、1927(昭和2)年に汽車会社で新製、伊那電気鉄道(国鉄に戦時買収、飯田線の一部となる)のデ120形デハ124として使用されたモハ1920形1924を買って連れて来て、1956(昭和31)年にモハ16形16を襲名(コラ)、2代目となるのでした。

その後、廃車となった小田急HB車の車体・台車(電気関係の部品は、後継の小田急4000系に譲ってがらんどう)が大量に手に入った1967(昭和42)〜1970(昭和45)年の時期にこれを丸ごと取っ替え(デンテツの中でもこの1両に限り、再電装するためにモーター・床下の電気回り・パンタグラフ・台車は自前調達)、元小田急デハ1400形1409にモーター再架装、さらに両運転台化、貫通扉埋め改造を施した3代目モハ16形16として1969(昭和44)年に登場しました。2代目が引退したのはその直前だったようです。2代目の廃車体はその後、モハ19形19(初代)の廃車体に代わって東関屋電車工場の奥に置かれ、物置として使われていたようですが、白山前廃止時の東関屋駅リニューアル工事の頃に解体されたようです。

で、3代目はもとから乗り心地が悪いと運転士から定評が付いていたもので、ワンマン化以降、車両に大幅な余裕が出るとめっきり仕事を減らしました。1990年代になると東関屋駅貨物ホームに詰め込められ、モワ51とつながって日向ぼっこでした。東関屋駅を改装するために燕駅の空きスペースに移ってからの最後の1年くらいは休車(再度、検査をしないと乗客を乗せられない)となり、1993(平成5)年7月31日の燕〜月潟廃止の直後、3代目はほかのクハ45形4両と一緒にモワ51に六分駅に連れて来られ、解体されました。車籍としては、解体された5両とも同年8月31日いっぱいで廃車となり、車籍を抹消されました。

何代目という記述が山のように出てきましたね。(汗) このように、歴代の車両研究をするとなると、こういうところも気を付けなければならないんです。

大井川鐵道の場合

理由…岳南鉄道からの売却

近江鉄道と同様の理由ですが、さすがは大井川鐵道、博物館のような選車です。というのもモハ1105はステンレスカー。また、モハ1102は事故廃車されているので、唯一の汽車会社製・日車標準車体という希少性があります。もっとも、「日車標準車体」という、社名のついた通称名の集団に別会社製品を入れるかどうかは充分に考慮すべき点ですが、なにしろ同期間に製造されていることと、ちょっと角張っている以外は外観がそっくりなこと(日車の図面の流用かは現時点では不明)、それに、岳南で事故廃車されたモハ1102との計2両製造されていることを加味すれば、現時点では日車標準車体に含めた方が理にかなっている、と、当サイトでは判断しています。

大井川では改番なしで活躍しましたが1995(平成7)年に廃車になり、2007年10月現在は千頭駅構内で倉庫と化しています。シールドビームはもがれて他車に流用されましたが、錆びないステンレスカーですから車体の状況は良好なように見えます。

デンテツの場合

デンテツの車両はご存知、2枚窓の非貫通です。ライト形状は、モハ14(旧モハ11)まで砲弾形(電球)、モハ21からシールドビーム(電球とは違い、レンズごと一体化している)です。屋根上のベンチレーター(通風器)は、モハ21までガーランド式(考案者の名からとった。上から見るとグリーン車のマークのよう)、モハ12から押し込み式(箱型。他の方式とは違い、空気を押し込むためこの名称がある)となっています。つまり、モハ21は仕様変化の過渡期に製造されたと言えます。

理由1…木製車の鋼体化

前述の通り、東武からの供出車(3両)の中でモハ19だけが木製で、国から鋼体化の通達が出てしまいました。それ以前にも、入線時に木製車だということがわかって関係者はがっかりしたそうで、のちにはニセスチール化(木の外張りだけを鉄にする)を行いました。そして1960(昭和35)年10月に生まれ故郷の移転先、日車東京支店蕨(わらび)工場で日車標準車体化されました。モハ19の場合は木製車だったから置き換えただけで、他に車体が小さ過ぎたとか老朽化していたとかという要因は少なかったようです。

そもそもなぜ鋼体化に日車を選んだかというと、デンテツ開業時からずっと(大手メーカーがパンクしていた頃に仕方なく新興メーカーに頼んだであろうモハ16(T)とクハ34形は例外とします)新製車両は全て日車で作ってきてもらっているという付き合いと、日車標準車体(の、値段)に惚れ込んだからでしょう。ともあれ、これでデンテツには木製車がいなくなり、めでたしめでたし…とは行きませんでした。

理由2…老朽化クハの置き換え

1962(昭和37)年12月にはモハ17形18が鋼体化され(書類上では旧車体を転用する関係で、オンボロのクハ38を改造したことになっています)、モハ18形18となりました。モハ18の旧車体は、そのままクハ40として竣功しています。私が推測するに、これはガタがきていたクハ38を廃車すると車両が足りなくなるので、新しい大型のクハを導入するために、まだ使える旧モハ18の車体を譲ってもらい、そのモハ18には新しい車体を載せてあげるという複雑な背景があると思われます。なお、廃車されたクハ38は東関屋駅車庫の横に置かれ、長い間作業場として使用されました。

理由3…車体大型化

次はモハ11形14が日車標準車体化されました。これは、当時のラッシュの惨状を考えれば、最大要因は大型化と見て間違いないでしょう。ただ、前述のクハ38とモハ14旧車体は東関屋駅車庫の横に置かれ、全線廃止まで作業場として残っていたことを考えると、作業場を増床したかったというのも要因に含まれると言えなくもありません。モハ14は1963(昭和38)年12月に鋼体化され、モハ10形14と変更されました。

この形式変更で初めて、いままで「モハ11形」「モワ51形」のように1から始まっていたデンテツ形式が崩れ、0で始まる形式ができたわけです。ただ、これは単に空いていた0を都合よく利用しただけで、別に旧来の形式をぶち壊すというような意味はなかったように思えます。これを見ればわかりますが、他の私鉄で見られがちな、新世代の車両は数字の位を一つ上げる(モハ100形とかありますよね)と言う発想はデンテツにはなかったようです。

理由4…老朽化車の更新という意味合いも

1964(昭和39)年6月16日に新潟地震が発生すると、デンテツは車両大型化よりも復旧をしなければならなくなり、次の鋼体化は1966(昭和41)年12月のモハ11形14(鋼体化後はモハ10形)となります。気づいた方もおられるでしょう。モハ14はすでに鋼体化されています。実は、1966(昭和41)年6月にモハ10形14とモハ11形11を振り替え、モハ11はモハ10形に、モハ14はモハ11形に改番されています。トップナンバーが最新車両のほうがいいということにでもなったのでしょうか。

つまり、旧月潟駅に展示されているモハ10形11は、振り替え前はモハ14だったということです。話がそれましたが、この"モハ14"も車体大型化が主因でしょう。ただ、もう少しすると乗客減少が顕著になり、車体大型化の必要もなくなることから、途中からは老朽化車の更新という意味合いも入ってきていたのかもしれません。

その後は1967(昭和42)年12月のモハ11形13一部機器+モハ17形17台車+ストック→モハ20形21、1968(昭和43)年12月のモハ11形12→モハ10形12、1969(昭和44)年12月のモハ17形17機器+モハ11形13台車→モハ24形24、同月のモハ11形15台車+ストック→モハ24形25の順に製造されました。

こう見ていくと、台車機器を寄せ合わせて作った車両は形式を新設していますね。モハ20形21はモハ10形10がないことにならって20の番号を飛ばしたとも考えられますが(こう考えると、これ以前のクハ40形40とこれ以降のクハ45形50の説明がつかなくなるようですが、クハ40のときは空番にする必要があまり感じられないし、クハ50のときは、その次の51番がモワだったわけですから、クハ45形の最終番号としても収めたいですよね。結果的に、このクハ50がデンテツの最終入線車となったのがよかったのか悪かったのか…)、モハ24形が22・23を飛ばしているのはどういう考えあってのことか…(24形に限っては、形式の下一桁が予算年度を表している可能性があるのではないかと考えています)。


なお、デンテツの第二世代車唯一の非日車標準車体であるモハ16(V)は近江鉄道の項で隅々と解説してしまったのですが(笑)、※小田急HB車(当サイトの説明を新しいウィンドウで表示)では、その車両がデンテツに来る前の小田急時代を説明しています。