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元小田急HB車たち… モハ16形V | クハ36形U | クハ45形 |

小田急HB車

ここでは、デンテツに来た元クハ1350形・デハ1400形・クハ1450形とその源流・周辺を解説します。なお、HBとは制御方式からきていますが、初期はHL制御でした。

小田原急行鉄道開業時

1927(昭和2)年4月1日に開業した小田原急行鉄道では、都市部の区間運用車を「乙号」、小田原まで直通する郊外電車を「甲号」として区別しました。乙号にはモハ1形(日本車輌製造製、モハ1〜18)があり、甲号にはモハニ101形(日本車輌製造製、モハニ101〜112)・モハ121形(藤永田造船所製、モハ121〜123)・モハニ131形(藤永田造船所製、モハニ131〜133)モハニ151形(藤永田造船所製、モハニ151〜155)の4形式23両がありました。モハニ151形は両妻面貫通の平面妻でモハ121形・モハニ131形は平面妻の片面貫通、あとの日本車輌製2形式は妻面に軽くカーブがついた非貫通車でした。なお、ここで出てきたモハニ151形が、デンテツのクハ36(U)の源流です。

江ノ島開業時

1929(昭和4)年4月1日に江ノ島線が開業すると、それに合わせてモハ201形等が運行開始しました。妻面スタイルは、モハニ151形で採用された両妻面貫通の平面妻を受け継ぎました。形式は、モハ201形(川崎車輌製、モハ201〜215)・クハ501形(川崎車輌製、クハ501〜505)・クハ551形(川崎車輌製、クハ551〜565)の3形式35両です。これがデンテツのモハ16(V)・クハ45形45〜50の源流です。車両単位で見ると、クハ551形の末番、クハ564・565がモニ1形の電装品を譲受してモハ251形(新設)251・252となっています。

戦時合併時

1942(昭和17)年5月1日、小田急電鉄(1941(昭和16)年3月1日に社名変更)は東京横浜電鉄・京浜電鉄と戦時合併(企業に力をつけて戦争を乗り切るため)して、東京急行電鉄(今で言う「大東急」)として発足しました。その際改番が行われ、小田急引継車は1000番台を与えられました。モハ1形はデハ1150形、モハ101形・121形・131形はまとめられてデハ1200形(モハ101形・モハ131形の荷物室はこれ以前に撤去)、モハニ151形はデハニ1250形、クハ501形・551形はまとめられてデハ1300形、モハ201形・251形はまとめられてデハ1350形にそれぞれ改番されました。

元モハ251形のデハ1350形1366・1367は1943(昭和18)年井の頭線に転出しました(一時的な転出なら他に10両あった)。デハ1367のほうは1945(昭和20)年の永福町車庫空襲で焼失し、1948(昭和23)年に日本鉄道自動車で車体を新製し、デハ1460形1462として復旧しました。デハ1366のほうは2度にわたって無人暴走事故を起こして床下機器を大破、大半の部品を交換して下記会社分割直前の1947(昭和22)年に東横線(翌年東急になる)に転籍しました。1950(昭和25)年に東急標準の3扉化がなされましたが、1964(昭和39)年に車体を更新し、デハ3550形3554となりました。その際不要となった車体は改造の上デワ3040形3041(元国鉄モニ13012)の鋼体化に流用され、小田急顔の東急荷電が出来上がりました。デワ3041は1981(昭和56)年まで本線を走り回り、同年廃車されました。なお、更新されたデハ3550形3554はというと、1975(昭和50)に廃車され、豊橋鉄道のク2731となりました。

終戦、会社分割時

終戦3年後の1948(昭和23)年6月1日、大東急は戦前のように会社を分割し、小田急は再び小田急電鉄として発足しました。1951(昭和26)年には改番も行いました。デハ・クハを同じ100番台に入れた以外は大東急時代とほとんど同じで、デハ1150形はデハ1100形、デハ1200形は変化なし、デハ1250形はデハ1300形、デハ1300形はデハ1450形、デハ1350形はデハ1400形となりました。なお、デハ1400形・1200形・1300形・クハ1350形(1956(昭和31)年にデハ1300形から分離。1351・1352の2両)は1954(昭和29)年から1959(昭和34)年までにこの順番で更新修繕が行われ、デハ1200・1400形は外観に若干の違い、デハ1300形だけは窓をアルミサッシ化するなど一新しました。クハ1350形は3→2扉化が行われています。

車両単位で見てみると、旧デハ1350形1356と旧クハ1300形1310が1946(昭和21)年に経堂工場で失火焼失し、復旧の際に3段窓で出場しました。のち、デハ1356は上記の改番でデハ1406となった後、1956(昭和31)年にデハ1310形(新設)1311となりました。1959(昭和34)年に更新修繕でデハ1300形と同じ車体を得ると同形式に統合され、デハ1304となりました。なお、空番になったデハ1400形1406には、1956(昭和31)年にクハ1450形1466が入りました(廃車後、教習車として永く残りました)。同時にクハ1467もデハ1400形に入り、末番のデハ1416となっています。この2両が転出したたことで2両分が空番となり、離れ小島になったクハ1468は繰上改番され、クハ1466となっています。前述のモハ251形も含めて、これらクハがデハに転出した理由は、MTバランス(モーター車比率)を整えるためではないでしょうか。

廃車、譲渡時

隆盛を誇ったHB車群も、戦後の新車登場に押され、1966(昭和41)年(更新されなかったデハ1100形は1960(昭和35)年)から1969(昭和44)年に順次廃車されました。その廃車がご存知の通り各地の私鉄に払い下げられ、第2の人生を歩み始めました。

デハ1100形…小田急荷電1両・相模鉄道9両・日立電鉄10両・京福電鉄3両・熊本電鉄4両

デハ1100形(元モハ1形→デハ1150形)は、この廃車以前にも1948(昭和23)年、戦時中東急に委託されていた相模鉄道(相鉄)に大多数が移籍しました。移籍したのはデハ1155〜1159・1161〜1165の9両(移籍後モハになる)で、1951(昭和26)年の改番でモハ1000形1001〜1009となりました。1958(昭和33)年にはモハ1002・1005がパンタなしの中間電動車になりました。他にも片側運転台改造車がありました。1963(昭和38)年から廃車が始まり、第1弾がモハ1001〜1003で、3両とも日立電鉄に譲渡され、1960(昭和35)年に小田急から譲渡されたデハ1100形(後述)と合流し、無改番で使用されました。廃車は1992(平成4)年です。次の廃車は翌1964(昭和39)年のモハ1004〜1006で、これは京福電気鉄道に譲渡され、ボデハ271〜273(1974(昭和49)年にモハに改番)になりました。この3両は1980年代前半に廃車されています。そして最後の3両ですが、荷電になりました。1965(昭和40)年に番号はそのまま記号がモニになり、中央扉を荷物用に拡幅しました。1978(昭和53)年に廃車になり、日立電鉄に譲渡されました。日立電鉄ではモハ1000形(番号そのまま)に戻り、中央扉2枚(片開き)のまま運用されました。廃車は1991(平成3)年です。

さて、小田急に残存した9両はというと、数両がGHQ(戦勝国の占領軍)専用車になっていました。他にデハ1152・1154が被災(1947(昭和22)年頃に復旧)するなど、とりあえず日本人のために動ける車両でも半数以下という惨状でした。1952(昭和27)年にGHQが撤退する頃には、ガラスは欠片だけが残り、モケット(上張り)のはぎ取られた座席ばかりといった、戦後臭い車両はなくなっていたのでしょう。最初に動きのあったのはデハ1101で、1958(昭和33)年にデニ1100形1101(荷電)になり、同じく開業時からの車両、デユニ1000形1001・1002(のちデニ1000形。旧モニ1形3・4→1939(昭和14)年モユニ1形1・2(モニ1・2は2年後に廃車))と、のちにはデニ1300形(旧デハ1300形。後述)と一緒に活躍しました。1976(昭和51)年廃車です。翌1959(昭和34)年にはデハ1105〜1108が廃車され、4両とも熊本電気鉄道に行き、モハ300形301〜304になりました。このうちのデハ1105は1981(昭和56)年に廃車ののち小田急に引き取られ、製造当時のモハ1形10に復元され、車庫で眠っています。残るデハ1102・1104・1109・サハ1103の4両編成は翌1960(昭和35)年に廃車され、またもや日立電鉄に売却されます。デハ1102がモハ1000形1004、1104が1005、1109が1006となり、サハ1103は1両1形式のサハ1500形1501になりました。4両とも1992(平成4)年から翌年にかけて廃車され、前述の日立電鉄車両も合わせて10両の大所帯はここに消滅しました。しかし、このうち約半数は沿線で保存・活用されているとのことです。

デハ1200形…越後交通2両・岳南鉄道2両

当形式は1400系とよく似ていますが、側面窓横の柱の間隔が一定ではないところから見分けがつきます。この形式は、18両もいる割には、デハ1100形と比べれば譲渡車両は少なく、たった4両でしかありません。1967(昭和42)年から1968(昭和43)年にかけて、モーターを4000系に譲り(この時代の新製なのに吊り掛け駆動となった)、順次廃車されていきました。なお、1954(昭和29)年以前に当形式とクハ1450形が台車を交換し、クハ1450形新製の時代に作られた住友製鋼所製KS-31Lを当形式が履き、当形式新製の時代に作られた住友KS-30Lをクハ1450形が履きました。これが、デンテツに来た元1400系(デハ1400形・クハ1450形)の中でクハ45形49(これだけ元クハ)だけが最初からKS-30Lを履いていた理由です。さて、譲渡された4両ですが、1967(昭和42)年、真っ先に廃車されたデハ1215-1216のペア2両は岳南鉄道に行き、番号の若い順にクハ2100形2103・2105(2104は「死」を恐れ忌み欠番)と改番されました。クハ2100形のトップナンバー、クハ2101は、日車標準車体(当サイトの説明を新しいウィンドウで表示)に最後に更新され、不要になった旧モハ38(元駿豆鉄道※現伊豆箱根鉄道モハ38。更新後はモハ1106)の車体を利用して作られました(同じ経緯で作られたデンテツ車両にクハ40がいます)。上下方向に思いっきりペッチャンコにしたような、面白い、もとい、個性的な形をしていました。クハ2102は元小田急クハ1450形1454(後述)でした。そしてラストナンバーのクハ2106はこちらも元小田急のクハ1650形1659でした。

デハ1200形の最初の廃車から1年8ヶ月、とうとう最後の廃車となりました。最後の廃車はデハ1209-1210のペアで、越後交通長岡線に行き、電装品を新調して、1969(昭和44)年の架線電圧750→1500V昇圧に合わせてモハ1400形1403・1404となって登場しました。モハ1401は元小田急デハ1400形1415(後述)、モハ1402はこちれも元小田急のデハ1400形1402(後述)で、モハ1404がラストナンバーです。こちらでは1969(昭和44)年頃までは元のチョコレート色のまま走っていたようですが、のちに"赤に窓周りクリーム"という塗装になりました。廃車は1975(昭和50)年の"旅客営業"最終廃止時でした。たった6年の間でしたが、主力車両に復帰できた最期は車両にとって幸せだったのではないでしょうか。

デハ1300形…小田急荷電4両・工場入換車1両

当形式は、更新修繕の際にHB車の中で最も近代的な車体を得ましたが、幅広になったドアがちょうどよかったのでしょう、他車が廃車され始めた1966(昭和41)年には運用を離脱し、4両とも新聞輸送車になりました。このときはまだデハのままです。1969(昭和44)年には正式に荷電となりデニに改番、9年前に車体をデハ1501・クハ1551のものと交換したデユニ1000形(元モニ1形3・4→モユニ1形1・2→デユニ1000形1001・1002。1971(昭和46)年にデニ化、1976(昭和51)年デニ1002廃車)・デニ1100形1101(元モハ1形1→デハ1150形1151→デハ1100形1101。1976(昭和51)年廃車)と付きつ離れつの1〜4両編成ほどで運用されていたようです。何回か塗色変更の後、前照灯を2灯化したり台車を廃車回生品のFS-14に交換したりしましたが、1984(昭和59)年度末の貨物輸送廃止で職を失い、訓練で使用されたのちに、最後まで現役だったデニ1001と共に解体されました。ただ、デニ1301・1303はその難を逃れ、1301は東急車輌の入換車モニ105に、1303は海老名検車区で保存されることになりました。モニ105の方は1993(平成5)年に引退、デニ1303は1991(平成3)年に解体されました。

クハ1350形…デンテツ1両・岳南鉄道1両

当形式、元はデハ1300形1304・1305でしたが、1956(昭和31)年に当形式に分離されてから受けた1959(昭和34)年の更新修繕では、近代的な車体になったデハ1300形と比べればあまり変わり映えがしませんでした。2両とも1968(昭和43)年、20日と置かずに廃車され、クハ1351は岳南鉄道に、クハ1352はデンテツに譲渡されました。1351は岳南で両運転台化され、モハ1100形1107となりました。モハ1100形は、1101〜1106が日車標準車体(当サイトの説明を新しいウィンドウで表示)の鋼体化組で、ラストナンバーはこちらも元小田急のデハ1600形1607でした。モハ1107は1976(昭和51)年に電装解除されてクハ2600形2602となりましたが、3年後にはなぜか番号だけ元のクハ1107に戻され、1981(昭和56)年に廃車されました。なお、廃車体が比奈駅に残されています。

デンテツに来たクハ1352の方は片運転台のままクハ36形36(U)になりました。1両1形式でしたが、デンテツは岳南と同じく元小田急車がたくさんいたのですっかり溶け込んでいました。特に前面オールHゴム(窓の衝撃防止・雨水浸入防止のために作られた、断面がH型のゴムひも。窓ガラスと桟の間に挟む)が共通点のクハ45形50(元小田急デハ1400形1411※後述)とは瓜二つでした。廃車は1989(平成元)年末と、他のデンテツ元HB車より4年早い廃車になりました。

デハ1400形…小田急教習車1両・デンテツ6両・越後交通3両

当形式の廃車は1966(昭和41)年暮れに、順次モーターを4000系に譲って廃車が始まりました。初廃車はデハ1401・1402で、1402が越後交通に譲渡され、電装品を新調の上、1969(昭和44)年の架線電圧750→1500V昇圧に合わせて長岡線モハ1400形1402として使用開始されました。なお、モハ1401は、デハ1400形の最終廃車(1969(昭和44)年)となったデハ1415がなっています。一番最後の入線車がトップナンバーを名乗っているのが疑問に思えて調べてみたところ、1967(昭和42)年度末までは元車の番号を踏襲していましたが、次年度初めからはその欠番を埋めるように改番して譲受しています。担当者が変わったか、方針が変わったか…。なお、長岡線モハ1403・1404は前述の通り元小田急デハ1200形です。4両とも廃車は旅客営業最終廃止時の1975(昭和50)年です。次の小田急廃車も越後交通に行っています。1967(昭和42)年、デハ1407が廃車されると越後交通が譲受してクハ1450形1452となりました。クハは制御電圧(マスコンの機微を電動車に伝える)さえ合えば架線電圧は関係無いのでしょう、1500V昇圧前から使用されていたとか。よく見てみると、この車両が元番号を変えて入ってきた車両第1号で、担当者云々の問題でなく、改番してみて3両続き(クハ1451〜1453)で番号がつながって扱いやすかったから、これ以降は穴埋め式に改番していったとも考えられますね。廃車は1973(昭和48)年で、同日に廃車されたもう1両、クハ1455(元小田急クハ1450形1457※後述)と一緒に、すでに経営が傾き始めていたデンテツに行き、車号も与えられないまま、元クハ1452はレール塗油車、元クハ1457は部品取りとして使われた後、越後大野駅側線に置かれ、解体されました。デンテツ在来車と同じ年式の車両であり、在来の目立った老朽化車もなし、乗客は右肩下がりとくれば、最初からこの運命が決まっていたと考えられます。

1968(昭和43)年にはデハ1406が廃車になりました。この車号ちょっとワケありで、実はデハ1406としては2代目です。前述したことを繰り返しますと、初代のデハ1406は1929(昭和4)年に造られた小田原急行鉄道モハ201形206で、大東急ではデハ1350形1356となっています。ここからが問題で、終戦後の1946(昭和21)年、クハ1300形1310と共に経堂車庫で失火焼失しました。その復旧で、当時は両車とも側面3段窓(桜木町事故のロクサンで有名。この窓の狭さが死者多数を出した一因)で出場しました。これはガラス不足のためと容易に推測できます。当時の車両は窓桟を小分けして小さなガラスをはめていたした。社名が小田急電鉄に戻り、1951(昭和26)年の改番でデハ1400形1406となりましたが、なぜか5年後にデハ1310形(新設。1両1形式)になり、1959(昭和34)年の更新改造でデハ1300形の新車体と同じものに改造されてデハ1300形1304(こちらも2代目。先代1304はクハ1350形に改番)となりました。この形式が新聞輸送車代用を経て荷物車になったのは前述のとおりです。それで2代目のデハ1406はというと、1956(昭和31)年に転籍してきた元クハ1450形1466です。MTバランス(モーター車比率)均衡化のためか、このときはクハ1467との2両が転籍しました。同年に先代デハ1406が転出したため、転入したクハ1466がその欠番を埋めたということになります。なお、クハ1467の方は埋めるべき欠番がなかったため最後番のデハ1416(のちデンテツクハ45※後述)についています。ついでに言いますと、これで兄さん2両を失ったクハ1450形の最後番、クハ1468は繰上改番され、1466になっています。
長くなりましたが、廃車された"2代目"デハ1406は、先代が失火焼失した経堂車庫の教習所に置かれ、静態で床下機器などを教える教習車となりました。この車両、なぜか塗色が、HB車がまとわなかった初代小田急カラー"藍色に窓周り黄柑色(便宜的な表現です)"になっていました。機器のほうは、まさか全廃になったHB車のものを教えていたわけがないですから、1600系あたりのものを着けたのでしょうか。他車では4000系に譲ったモーター(主電動機。台車にくっついている)も、この車両だけは役が役だけに扱いが違ったのかもしれません。この教習車は1987(昭和62)年に海老名機械保線区脇に移動し、1991(平成3)年に解体されました。

デンテツに来た車両の最初廃車は1967(昭和42)年のデハ1416→クハ45形45でした。この車両は元クハ1450形1467で、1956(昭和31)年に転籍してきました。MTバランス(モーター車比率)均衡化のために転籍したのでしょうか。デハ1416の廃車と同じ年にはデハ1408も廃車され、クハ45形46と、45の後についています。翌1968(昭和43)年には3両が廃車されました。まずデハ1414が廃車、クハ45形47になりました。次はデハ1409・1412が同時廃車され、それぞれモハ16形16(V)・クハ45形48となっています。モハ16の方は、日車標準車体を買う資力がなくなってしまったのかどうなのか、日車標準車体ばかりのデンテツ第2世代のモハで唯一のHB車利用となっています。そしてデハ1400形の最終廃車となったのがデハ1411・1415でしたが、1411はデンテツクハ45形ラストナンバーの50になりました。1415は越後交通長岡線モハ1400形1401となったのは前述のとおりです。デンテツクハ50は、クハ36形36(U)と共に前面オールHゴム(窓の衝撃防止・雨水浸入防止のために作られた、断面がH型のゴムひも。窓ガラスと桟の間に挟む)で、小田急でも形式が違ったのに、見まごうほど似ていました。廃車は、モハ16・クハ47〜50が燕〜月潟廃止後の1993(平成5)年8月31日、クハ45が同年12月31日、クハ46は全線廃止時の1999(平成11)年4月5日です。なお、8月31日廃車組は、数年前から休車だったものが多く、燕駅留置線ででたむろしていたのを見られた方も多いのではないでしょうか。

クハ1450形…デンテツ1両・越後交通5両・岳南鉄道1両・弘前電鉄1両

当形式の最初廃車は、デハ1400形と同じく1966(昭和41)年暮れでした。廃車されたのはクハ1451で、無改番で越後交通長岡線に行きました。もしこの車両が後ろの方の番号であれば改番はされていたのかもしれません。翌1967(昭和42)年中には、クハ1453→無改番・クハ1457→クハ1450形1455・クハ1468→クハ1450形1454の順に廃車譲渡、のち矢印の番号で竣功しています。なお、クハ1468というのは前述の通り、すぐ上の番号2両がデハ1400形に転出し、繰上改番された元クハ1468です。クハ1450形の最終廃車となったのは、1969(昭和44)年のクハ1461・1465で、1461は越後交通クハ1450形ラストナンバーの1456、1465はデンテツクハ49(後述)になっています。越後交通での廃車は、クハ1451が1974(昭和49)年、元小田急デハ1400形1407のクハ1452が1973(昭和48)年で、デンテツに引き取られてレール塗油車として使われた後解体されています。クハ1453は1975(昭和50)年の旅客営業最終廃止時、クハ1454も同日です。クハ1455は1973(昭和48)年で、デンテツに引き取られて部品取りとして使われた後解体されています。そしてラストナンバーのクハ1456が1975(昭和50)年の旅客営業最終廃止時となっています。

1967(昭和42)年、当形式2両目の廃車はクハ1453でした。岳南鉄道に譲渡され、クハ2100形2102として竣功しました。同形式の仲間はデハ1200形のところで詳述したので割愛します。なお、岳南は台車交換が活発だったようで、電動車など、色々な台車が交錯しています。廃車は1981(昭和56)年のようです。

1968(昭和43)年にはクハ1459が廃車され、弘前電気鉄道(のち弘南鉄道)クハ201となりました。塗色は肌色に腰周り小豆色ですが、小豆色のほうは俗にいう「腰パン」状態で、窓下の補強(シルといいます)直下ではなく、かなりラインが下がっています。新型電車のラインに合わせたのでしょうか。廃車は1981(昭和56)年です。

デンテツには、1969(昭和44)年、当形式の最終廃車となった2両のうち1両クハ1465が譲渡され、クハ45形49となりました。クハ45形の仲間はデハ1400形の一番下に書きましたので割愛します。このクハ49と、元デハ1400形のクハ50、他にもクハ36・37・39は、ワンマン化の際にワンマン改造が行われませんでした。これはともすれば死刑宣告にも匹敵するもので、ラッシュ時や繁忙時のツーマン(車掌常務)運転以外は運用に就けなくなってしまいました。それからしばらくは残りましたが、やはりワンマン運転対応車と比べれば短命に終わりました。クハ49の廃車は燕〜月潟廃止1ヶ月後の1993(平成5)年8月31日ですが、廃止直後にモワ51に牽かれて六分駅に行き、そこで解体されているので、廃車時にはすでに車体は跡形もなくなっていたことでしょう。